記憶の記録

旅の記憶を記録しています。

5.何もない島(沖縄・八重山)

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何もないが気持ちのいい風景がある。波照間島にて

 2019年4月末、異例の10連休の初日に僕は神戸空港にいた。普段は閑散としている空港だが、この日の人の多さは異常だった。チェックインカウンターの前には人だかりができ、保安検査場も列をなしている。航空券や宿代が高いGWや正月などは旅行に行かないので、普段の神戸空港ではなかなか見られない光景だった。

 

 片道3万円近くもする航空券(帰りは8千円で取れた)を握りしめ那覇へ向かった。近頃安い航空券が多いことは嬉しいが、こういう時は非常に割高に感じる。5月の沖縄はもうすっかり夏だった。石垣までの乗換に少し時間があったので、スーツケースを持った人々で混在しているゆいレールで街中に出て、ちゃんぽんとルートビアでお腹を満たした。4ヵ月ぶりの沖縄である。まちを取り巻く緩やかな空気が心地よかった。夕方、混雑する那覇空港から石垣に向かった。

 

 八重山の島をめぐってみたかった。カベルナリア吉田さんの「沖縄の島に全部行ってみたさ―」という本を読み、那覇の沖縄と島の沖縄は全く別の時間が流れているように感じた。石垣空港から街中までバスで30分、車窓からは深い緑の木々が移り行き、夜の暗がりの中でも亜熱帯にやってきたことを感じさせてくれる。初日は離島ターミナルから歩いてすぐのところにあるゲストハウスに泊まった。石垣の繁華街は決して規模は大きくないが、それなりに観光客でにぎわっていた。メンガテーというスナックのような店でママが作る八重山そばで腹を満たし、サマーグラスというこの街に似合わないくらい洒落たショットバーでジョニ黒を飲み、眠りについた。

 

 翌日、早朝のユーグレナ離島ターミナルでポークたまごおにぎりを頬張りながら船を待った。早朝のターミナルは思ったほど人はいなかった。雨が降る中、竹富島へ向かった。片道15分という速さで島に着いた。早朝の竹富島は静まり返っていた。まだ街が眠っているような雰囲気である。小雨が降る中、誰もいない集落を歩いてみた。石垣は作られた景観だと黒島で出会った沖縄好きのおっちゃんが言っていたが、オレンジ色の瓦屋根、サンゴでできた石垣、綺麗に手入れされた家屋の植栽、道に敷かれたサンゴの砂や水牛の観光車に至るまで、全てのものが景観を構成していた。確かにこれだけ素晴らしい景観は努力して作らなければ得られないだろうと思った。1986年に制定された竹富島憲章という住民同士での取り決めがある。土地を売らない、島を汚さない、美観を乱さない、家や自然を壊さない、文化を生かす。この5つを基本理念として、住民たちは長くの間この景観を守ってきたのだ。

 ひととおり集落を回り終えとたころで、住民のおばちゃんから雨が上がったねと話しかけてきた。竹富島に泊まるのかと聞かれたが、宿がいっぱいで泊まれなかったというと、少し残念そうにしていた。竹富島では、石垣島からの近さもあって、日帰りで少し滞在して帰ってしまう人がほとんどらしい。そういった客は風紀を乱す人が多いのだと何かの文章で読んだ。いろいろと苦労しているのである。

竹富島から離島ターミナルに戻り、午後一の便で黒島に向かった。2週間前、竹富島波照間島の宿を探していたが、予約が遅すぎたこともあり、離島の宿はほぼ埋まっていた。唯一この島で1件の民宿に空きがあった。「みやよし壮」今夜の宿である。船着き場に着くと、宿の主人が宿泊客を迎えに来てくれた。どうやら、今日の宿泊客は3人らしい。僕と同年代くらいのさわやかなお兄さん、50歳くらいのよく日に焼けたおっちゃんである。宿に着き、部屋に案内された。古びた和室は少し湿ったにおいが漂い、くたびれた畳に寝転ぶと眠ってしまいそうな心地になった。

 

 主人に自由に使ってもいいですと言われた、壊れていると言っても言い過ぎではない自転車で島を回ってみた。天気はすっかりと快晴になり、集落を出ると青い空と一面に広がる草原の緑が出迎えてくれた。事前に調べていると、黒島は何もない島だった。実際に回ってみたが、本当に何もない島だった。島はほぼ平坦である。産業も貧弱だったことから、牛の養殖という道を選び生き残っている。辺りは草原と牛、この風景が延々と続く。島の中央に展望台があったので登ってみた。一面の草原と青い空が見渡せ、ぼーっとしているだけで時間が過ぎていきそうな場所だった。そこに1人でぼーっと景色を眺めている女性がいた。

 「何もない島ですね」話しかけてみた。すると女性は、はっとこちらに気づき「何もないところがいいんですよ」と笑顔で答えた。この景色に満たされているような笑顔だった。

 その後、展望台から桟橋に向かい、島を一周した後、船着き場に向かった。すると先ほどの女性がレンタサイクルを返すところだった。また会いましたねと女性が船を待つ間少し話した。東京の人だが、沖縄の島をよく巡るらしい。ゴールデンウィークも9日間八重山に滞在すると言っていた。色んな島に行き、ゆっくりときれいな海を眺めるのが好きだという。そう語る女性は、沖縄の島で流れる時間と綺麗な海にまるで恋をしているような表情で話してくれた。そこまで好きになれる場所があり羨ましいなと思った。

 

 女性を見送り、黒島研究所でウミガメと触れ合った後、宿に戻り、部屋で寝転んだ。すでに日は傾きかけており、赤く染まった西日が部屋の中に差し込んでいる。年季の入った部屋と優しい光が疲れた体を包み込んでくれる。夕食の時間まで少し休息をとった。

 夕食は1階の食事室で18時からだった。少し早めに食事室に行き、冷蔵庫からオリオンを取り出し飲んでいた。この宿は冷蔵庫に大量のビールが入っており、取り出した分だけ冷蔵庫に張られた紙に「正」の文字で数を記入していくのがルールだった。オリオン1本200円、ほぼ原価だと思う。するとさわやかなお兄さんがやってきて、オリオンで乾杯し、食事を待った。さわやかなお兄さんは年に何度か2週間程度の長期休暇があり、色んなところを旅しているらしい。旅行好きには理想的な職場だなと思った。次によく日に焼けたおっちゃんがやってきた。同じくオリオンで乾杯し、食事を待った。日に焼けたおっちゃんは年に1度、嫁や子供を置いて、一人で八重山に来るらしい。八重山が完全に自分の居場所になっているようだった。主人が腕を振るった食事はどれもおいしかった。刺身やゴーヤチャンプルー八重山そばまで、地元の料理を楽しんだ。食事の後、今回の旅について3人で語り合いながら、無料で飲んでいいと言われた泡盛を飲んでいた。だいぶ酔いが回ってきて心地よくなってきたころ、急に玄関の扉が開いた。すると短パンにTシャツ、サンダル姿で、サンタクロースのように真っ白なひげを生やしたおっちゃんが入ってきた。見たことのない人だなと思ったら、冷蔵庫からノンアルコールのオリオンを取り出し、僕たち3人の横に座ってテレビを眺めだした。誰だこの人は…3人ともそう思ったに違いないが、自然と会話が生まれ、近くに住んでいるおっちゃんだという事が分かった。よく考えれば、この島には宿泊客以外、近くに住んでいる人しかいない。つい最近まで入院していたらしく、まだノンアルコールなのだという。白ひげのおっちゃんを交えて飲み進めていたところ、今度はサングラスをかけた白い長髪のおっちゃんが泡盛の四合瓶を片手に握りしめて入ってきた。白ひげのおっちゃんの退院祝いに来たらしい。3人とももう慣れていたが、この民宿は完全にこの人たちの日常的な酒盛りの場になっていた。酔いのせいで詳しく覚えていないが、サングラスのおっちゃんは半年はスキー場で、半年は八重山で暮らしていると言っていた。都会での生活が合わないらしい。途中から店の主人も加わり、合計6人の酒盛りになった。とにかく、島の人は陽気でおおらかだった。そして何もないこの島での生活を楽しんでいた。都市で暮らすことで生まれる様々なしがらみやストレスとは無縁の笑顔で、人間らしいなと思った。

 11時頃だろうか。だいぶ酔いも深くなってきたころ、近所のおっちゃん2人組が帰っていった。そして日に焼けたおっちゃんと、星を見ようと外に出た。集落にはいちよう街灯があったが、宿から1、2分歩くだけで辺りは深い闇に包まれた。そして空を見上げると、満点の星空が広がっていた。星が降り注いでくるという表現はこういう時に使うのだろう。都会では絶対に見ることができない景色。この島の人は毎日、この星空を眺めているのだと考えると、贅沢な暮らしだなと思った。

 

 次の日、宿で朝食を食べ、ユーグレナ離島ターミナルに戻り波照間島に向かった。天気は快晴、船から降りた後、南国風のおっちゃんに声をかけ原付を借りた。容赦なく降り注ぐ日差しを浴びながら何もない島を走った。あるのは絵の具のように青く綺麗な海と、見晴らしのいい道、青々と茂った緑だけである。島を1周し、共同売店で泡波を買い、港で海を眺め、ぼーっとしていた。1冊の本を思い出した。「パパラギ」というタイトルの本である。文明を持たない南の島に住む少数民族の村長の立場で、西欧の文明社会を痛烈に批判した作品である。


都市での生活に慣れ親しんだ身にはなかなかイメージが難しかったが、今なら文明を持たない生活の良さが少しわかる気がした。高度な文明が必ずしも人間を幸福にするとは限らないと改めて思った。

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雨上がりの竹富島、日が差し込み花々が輝いた。

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牛ばかりの黒島、この景色が延々と続く

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黒島での宿「みやよし壮」いい味が出てます。

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疲れた体に心地の良い部屋だった。みやよし壮にて

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息を飲むほど青い海、波照間島にて

 

4.沖縄の食堂②(沖縄・糸満)

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糸満にあるセンター食堂 少し閉鎖的で入りづらい

 もう一軒印象深かった沖縄の食堂の話をしようと思う。

 

 2019年5月、ひめゆりの塔に行こうと思いレンタカーを探したが、異例の10連休のためか空いている車が1日3万円というとんでもない値段だった。原付も探してみたが空きがない。バスを探すと、那覇バスターミナルから糸満バスターミナル経由でひめゆりの塔まで行けるらしい。迷わずにバスに乗った。

 

 糸満バスターミナルから南へ行くバスは本数が少なかった。1時間と少し乗り換えに時間があったため、朝食を食べにバスターミナルから歩いて行ける距離にある食堂に向かった。店名はセンター食堂。今はバスターミナルから少し離れているが、当時はすぐ近くにあったようである。

 

 9時半頃、食堂というにはなかなか閉鎖的で入りづらい入口の前に着いた。扉を開くと客は誰もいなかった。おばーというにはまだ若いお母さんくらいの店員(以下、おかー)が1人で切り盛りしていた。僕はカウンター席に座った。何にしましょうかと問われ、壁に掛かった短冊形のメニューの中からカツ丼を頼んでみた。

 

 非常に清潔な店内だった。大きなカウンターの向こうには調理場があり、おかーがテキパキと料理をする姿が見渡せる。ぼんやりとおかーを眺めていたところ、驚きの光景が目に入った。おかーが大量のキャベツやニンジンなどの野菜をフライパンに入れたのである。客は僕1人、カツ丼を頼んだはずだが…野菜炒めとメニューを間違えたのだろうか…しかし、野菜を炒め終わると大きなカツを揚げ始めた。やはりカツ丼なのである。サイドメニューに野菜炒めが付くのだろうか。あまり気にしないことにした。

 

 おかーが料理をしている間に店内を見回した。壁には短冊形のメニューが掲げられ、みそ汁、ちゃんぽん、たまごポークと沖縄らしいメニューが並び、その下には禁煙、禁酒の文字が…ん、禁酒?一瞬どういうことかわからなかった。ここは食堂なのだが…少し考えてようやくわかった。近所のウチナーンチュの男はここに酒を持ち込むのだろう。そして定食を食べながらだらだらと酒盛りをするようである。困り果てたおかーはこの「禁酒」という文字を貼ったのだ。なんとも沖縄らしい話である。

 

 考えを巡らしているうちに、カツが揚がった。そろそろ出来上がりだなと調理場を眺めていると、またしても驚きの光景が目に映った。ご飯を盛り、一口大に切ったカツをのせた。ここまでは普通のカツ丼である。そしてその上に、大量の野菜炒めをぶっかけたのである。お待たせしましたと出されたカツ丼は、野菜炒めでカツがほとんど隠れており、カツ丼というより野菜炒め丼である。見た目のインパクトは凄いが、とりあえず食べてみることにした。

 

 野菜炒めはウスターソースの濃いめの味付けで、なかなか美味しい。しかし、カツ丼なのにカツまでなかなかたどり着かない。カツにたどり着く頃には、野菜炒めとご飯でサンドイッチされているため、水分を吸ってカツのサクサク感は全くない。しかし、野菜炒めのウスターソースが染み込んだカツはなかなか美味しかった。

 

 食べ進めていると、おかーに「どこから?糸満?」と聞かれた。関西からですというと、日に焼けてるから内地の人とは思わなかったと言われた。ここに来る前に4日間八重山諸島を巡っていた。5月の八重山はそれほど日差しが強かったようである。

 

 そうしていると客が1人、また1人と現れ始めた。地元の人であろうか、それぞれみそ汁、ゴーヤと頼んでいく。沖縄の食堂に行くとよく耳にするが、ウチナーンチュはゴーヤチャンプルーのことをゴーヤと言う。長いから省略してしまったのだろう。地元民の日常食といった感じである。

 

 このカツ丼もかなり量が多かった。45分ほど格闘しただろうか、ようやく食べ終わった。どうしてカツ丼がこんなことになってしまったのだろうか。考えを巡らしたがそれらしい答えには辿り着けない。カツ丼は野菜が取れないからおかずを一緒に出していたが、別々の皿に盛るのが面倒くさくなってぶっかけスタイルに移行した。勝手な想像である。琉球、日本、アメリカ、そしてまた日本へと様々な時代と文化の中で育まれてき感覚なのだろう。

 

 その後、沖縄のカツ丼について調べてみたが、カツの下に野菜炒めを敷き詰めるスタイルが一般的らしい。カツの上から野菜炒めをぶっかけるスタイルは少数派のようである。野菜と一緒にカツを卵でとじた店もある。しかし、センター食堂の野菜炒めの量は群を抜いて多い気がした。

 

 内地の人にとって沖縄の食堂は、お腹だけでなく好奇心も満たしてくれる場所だと思っている。今は沖縄にも大手の資本が流れ込み、個人経営の小さな食堂は少なくなってきているらしい。こういう文化は残っていってほしいなと感じる。

 

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店内にはメニューに並んで禁酒の文字

 

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センター食堂のかつ丼 かつはほとんど見えません

 

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糸満バスターミナル 年季が入ってます

3.沖縄の食堂①(沖縄・那覇)

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那覇にあるゲンキ食堂


 沖縄では、独自の食文化が根付いている。その情報は知識としてあったが、実際に自分が体験した出来事を記してみたい。沖縄に行ったと人に話すと、ソーキそばは食べたか、沖縄のステーキはすごい大きさだなどという返事が返ってくる。それはそれでいいのだが、それ以上に面白い体験ができるのが沖縄の食堂だと思う。

 

 沖縄には、おばーが個人で営んでいる店がたくさんある。今では数も少なくなったらしいが、おばーの食堂に行くと、独自の食文化を目の当たりにする。那覇のゲストハウスに泊まっていた時、宿においてある本を読んでいた。「沖縄オバー食堂」とタイトルが付けられたその本は、無くなりつつある沖縄のおばーの食堂を写真メインに紹介していた。その中で那覇市内にあり、宿から歩いて行けそうな店が1軒あった。店の名前は「ゲンキ食堂」これは行ってみるしかないと思い次の日訪れた。

 

 2019年1月、朝の9時半ごろ、宿から20分ほど歩き店に着いた。だいぶ年期が入った建物の外観からは営業しているかどうかよく分からなかったが、扉が開いていたので中に入ってみた。土間にテーブルが置かれその横に調理場があり、おばーが仕事をしていた。客は誰もいなかった。と言っても、テーブルが1つあるだけで、4人くらいしか入れない。「やってますか」と聞くと、おばーは首を縦に振った。

 

 椅子に座り短冊形のメニューを眺めていると、「私もさっき食べたけど美味しかったよ」といいながら、おばーがお茶と2つ残った食べかけの餅を出してくれた。これだけで僕には十分朝食になりそうだが、おばーにいわれるがままにいただいた。

 

 何を頼もうか考えていると「おかず 500円」というメニューに目が止まった。以前から頼んでみたいと思っていたのだ。沖縄では、「おかず」というメニューがある。本土の人には違和感しかないが、野菜炒めのことをこう呼んでいるらしい。しかもおかず単品で出てくるのではなく定食である。ご飯と味噌汁、副菜も付いてくるらしい。同様に「みそ汁」というメニューもある。これも具沢山のみそ汁にご飯と副菜などが付いてくる。みそ汁単品で出てくると思い頼むと大変なことになってしまう。僕はおかずを頼んだ。

 

 おばーが調理場で野菜を切り、炒め始めた。料理が出てくる前に店の中を観察してみた。客席と調理場は土間で、そこからカーテンで仕切られた小上がりの先には生活空間


が続いている。町家のような雰囲気である。決して綺麗とは言えないが、時の流れとともに汚れが染み付いた店内にはどこか落ち着きを感じる。いつからか時間が止まってしまったような感覚である。この店はアメリカ世時代から営業しているらしい。

 

 15分ほどすると、「お兄ちゃん、ちょっと多いかな〜」とおばーが言いながら、大皿に大量に盛られた、3人前くらいはありそうなおかずを持ってきてくれた。朝からこんなに食えるわけがない…と身構えていると、茶碗に大盛りのご飯が出てきた。さらにみそ汁、大根と人参の酢の物と出てきて、立派な定食が出来上がった。

 

 とりあえず食べるしかない。おばーにいただきますと言って食べ始めた。味付けは少し薄めで、いかにも家庭料理といった雰囲気である。おばーに美味しいですと言うと、「豚肉が無かったからポーク入れた」とおばーがはにかんだ。なんとも愛嬌のあるおばーである。ちなみにポークとは、ポークランチョンミートの略で、豚のクズ肉を寄せ集めた缶詰である。アメリカ世時代に米軍が持ち込んだもので、沖縄では日常的に食べられているらしい。

 

 ゆっくりと、よく噛み、30分ほど食べ進めたが、一向に終わりが見えない。そうしているとおばーが揚げ物を始めた。大きな鍋の中に衣をつけた具材をどんどんと放り込んでいく。どうやらメニューにある天ぷらを作っているようだ。出来上がると1つ持って来てくれた。もうこれ以上食えないと思いながら口に運ぶと、天ぷらとは思えない衣の分厚さに驚いた。フリッターといった感じである。美味しいが、今の腹にはきつい。その時、茶碗が空になっているのに気づいたおばーは、ご飯のお代わり入れようかと言ってくれた。突っ込みたくなったが、やんわりと断った。

 

 1時間ほどおかずと格闘したが、とうとう胃が何も受け付けなくなってしまった。おばーにごめんなさいちょっと残しますと言うと、「いいよいいよ残して、ちょっと多かったね」と笑顔を作ってくれた。ちょっとではないが…ただ、この量の多さも沖縄おばーのサービスなのだろう。

 

 お会計をするとき、「じゃあ500円だけちょうだいね」と言われた。天ぷらもいただきましたけどと言うと、「いいのいいの、あれはサービスさ」とおばーは言った。今からどうするのと聞かれ、今日は首里に行こうと思いますと言うと、「首里から戻ってきたらまた来なさい。その時には豚もあるから」と言われた。またあの量を食べることはできないが、おばーの優しさをしみじみと感じ、なんだか元気をもらった気がした。まさしくゲンキ食堂である。まるで本当のおばあちゃんの家に来たような体験だった。その後、夜まで腹が空かなかったのは言うまでもない。

 

 その後、書籍「沖縄オバー食堂」を買ってみた。おばーの名前は宮城祠さん、80半ばであれだけ元気にやっていることに驚いた。ゲンキ食堂の名前の由来はゲンキ乳業(後の沖縄森永乳業)からきているらしい。店のキャラクターもゲンキ乳業のものであるようだ。これからも元気に店を続けてほしいものである。

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お餅とおかず この他にもみそ汁と酢の物、てんぷらまでいただいた。

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てんぷらをあげるはるオバーは愛嬌にあふれている。

2.米軍とともに戦争で栄えた街(沖縄・コザ)

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アメリカの雰囲気が漂うパークアベニュー

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夕暮れ時のコザ・ゲート通りを歩く欧米人家族

 沖縄県沖縄市にコザという地区がある。かつてはコザ市という名称で、当時は唯一の片仮名表記の市名であったらしい。嘉手納基地の南東、基地へと続くコザ・ゲート通りを中心に、ベトナム戦争とともに栄えた街である。この街を知ったのは仲村清司さんの文章だ。簡単に説明すると、ベトナム戦争が本格化する中、「Aサインバー」と呼ばれる米軍が認可し米兵が入店できる飲み屋が軒を連ね、明日死ぬかもしれない米兵が飲み明かしてありったけの金をばら撒き、戦争特需で栄えた街である。

 

 次に沖縄に行った時、必ず訪れようと思っていた。書籍やネットの情報から、どこか浮世離れしたこの街に惹きつけられていた。2019年1月、10年ぶりに那覇に降り立った後、那覇を素通りして早々に那覇バスターミナルからコザへ向かった。約1時間バスに揺られてコザに着き、昼間の街を歩いてみた。街にはAサインバーを中心にアメリカ文化を色濃く残す建物が立ち並び、米兵であろう欧米人がときおり歩いている。1、2時間もあればひととおり中心部を歩ける規模である。

 

 最盛期は本当ににぎやかな街だったらしい。コザフリークと言われる本土からの旅行者が、那覇を素通りしてコザで飲み明かし、そのまま本土へ帰ってしまうほどファンも多かったという。今ではそんな人が来ることはないだろうが、繁栄の残り香のようなものが街の至る所に感じられる。ゲート通りの東にあるパークアベニューは街路にヤシの木が生い茂り、横文字の店が軒を連ねるいかにもアメリカンな雰囲気であるが、多くの店はシャッターを閉ざし、今ではだいぶ廃れている。最盛期はにぎやかだったんだろうなと、当時の街を頭の中に思い浮かべた。

 

 この街では、今でも週末の夜になると基地で働く米兵が街へ繰り出してくるらしい。もしかしたら米兵と飲めるかもしれない。そんな期待を胸に、スポーツアンドミュージックバーと掲げられた飲み屋に入りオリオンを頼んだ。土曜の18時頃だというのに客は僕1人だった。広くアンティーク調の家具でまとめられた店内は洒落ていた。心地のよい空間でぼーっとテレビのモニターを眺めていたが、時間が経っても客は僕1人だった。喧騒が似合う店なのに残念だなと思いながら、1時間ほどして店を出た。街を歩き、アメリカの田舎町にありそうなバーに入った。この店は女性欧米人が店員として働いていた。壁には英語のメニューが並んでおり、料金にはドルの表記もある。この街ではドルで酒が飲めるのだ。今日本でドルが使える場所はそうそう無いのではと思う。この街はアメリカとともに時を重ねてきたのだなと改めて感じた。欧米人の店員によると、夜の10時頃になると外人さんが街へ繰り出してきて賑やかになるらしい。僕は那覇に宿を取っていたから、バスの時間の関係で、それまで滞在することは難しかった。これはまた来るしかないなと思い、2軒目の店を出た。

 

 バスの時間まで夜のコザを歩いてみようと思った。バーやライブハウスのネオンが灯り、昼間よりは賑やかな雰囲気を醸し出しているが、それほど人通りは多くない。最盛期はこの道も人で溢れかえっていたのだろうと考えると少し寂しくなってしまうが、栄枯盛衰は世の習いである。

 

 コザゲート通りでカメラをぶら下げて歩いていると、シャッターが閉まった店の前で胡座をかいて路上に座るおじさんに声を掛けられた。

 

「写真を写してるんですか」

 

「趣味ですけど」

 

 おじさんはギターを肩から掛けていた。ストリートミュージシャンだ。経歴を聞いてみた。昔はインディーズでCDまで出したらしいが、知人に金を騙し取られて沖縄に流れ着いたらしい。今は外人さん相手に細々と歌を歌っているという。沖縄に来てそれほど長くないようだが、ウチナーンチュは内地の人には冷ややかだと言っていた。僕の感覚ではよそ者もすんなりと輪に入れてくれるのがウチナーンチュだと思っていたのだが、住んでみないとわからない事でもあるのだろうか、はたまた沖縄で何か嫌なことがあったのだろうか。あまり深入りしないことにした。

 

 良かったらまた歌も聞いてくださいと言うので、1曲歌ってくださいよとリクエストした。長渕剛でもいいですかというおじさんに、はいと答えた。

 

 静かなコザの街にギターの音が鳴り響いた。おじさんの歌声は見た目から想像できないほど太く力強かった。見た目はただのおじさんだが、紛れもなくミュージシャンだった。何の曲かは忘れてしまったが、その力強い声に鳥肌がたったことは覚えている。おじさんに拍手を送り、銭を投げ、頑張ってくださいと言い残し後をたった。コザは音楽の街らしい。行き場をなくしたおじさんはコザでもう一度自分の音楽を探しているのだろうか。

 

 また戦争でも起きない限り、この街はかつての繁栄を取り戻すことはないだろう。それでも、またコザに来たいと思った。珍しいものに人の心が惹きつけられるように、基地と戦争という日本では特異な経緯で栄えたこの街には、他では感じることのできない魅力があるようである。

 

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欧米人が働くバー、遅い時間には外人で賑わうらしい。

 

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コザのストリートミュージシャン

 

1.沖縄流オープンカフェ(沖縄・那覇)

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栄町市場にある「モラカフェ」

 2019年1月、冬の那覇空港へ降り立った。10年ぶりの沖縄、滑走路からターミナルへと向かう途中に機内から見える自衛隊の基地を横目に、沖縄だなぁと心の中でつぶやいていた。

 2009年、大学生になったばかりの夏休に友人と訪れたのが沖縄だった。まだ旅行にも慣れていない未成年ながら、綺麗な海やソーキそばに心が躍ったことが懐かしかった。その後10年間、いろんな街を歩いてきた。旅行好きが興じて、一人でも出歩くようになり、昨年、ひととおり日本を回り終えた。次はどこへ行こうかと考えていたところ、ふと沖縄に行こうと思った。10年間で目に映る変化を感じたかったのだと思う。パソコンを起動しブラウザを開き、片道5,000円のピーチアビエーションを予約した。

 10年ぶりに目に映った那覇は、日本ではなくアジアだった。社会人になってから、年に1、2回アジアの都市を訪れていた。サラリーマンという忙しい身分の中で、3、4日もあればあまりお金もかけず気軽に行ける海外がアジアだった。バンコク台北、香港、ソウル、シンガポールハノイの都市を訪れてきた。何度も頻繁に訪れたわけではないが、細々とアジアの空気を感じてきた。那覇は30万人都市とはおもえないほど都会だ。現代的な高層ビルが立ち並んでいる。しかし、一歩路地に足を踏み入れるとそこは一気にアジアの雰囲気が漂っている。強い日差しや風雨、そして車からの排気ガスで風化した建物の佇まいや、土地の境界などあまり気にしていないであろう植栽やお店の看板、気怠そうにとぼとぼと歩く色黒のおじさんやおばさん、1月でも湿度の高い少しねっとりとした空気に、アジアの雰囲気を感じていた。

 その日、コザに行き、那覇へ帰ってきたあと、前から気になっていた場所へ向かった。ゆいレール安里駅南にある栄町市場である。下川裕司さんの著書が好きでよく読んでいる。その著書の中でたびたび登場するのがこの市場である。1955年に設立され、今でも昼間は市場として機能しているが、夜になると飲み屋街に変貌を遂げるという場所である。

 栄町市場の中は、人がすれ違うことがギリギリの細い通路の脇に、こじんまりとした飲み屋がひしめいていた。中には若者が好きそうな洒落たお店もある。ひととおり市場の中を歩き終えて、どの店に入ろうかと迷っていたところ、1軒の店が気になった。カウンター席が5、6席くらいと、市場の通路にはみ出して10席程度のパイプ椅子が置かれたその店では、地元の人であろうおじさんやおばさん達が、グラスを傾けながらバックヤードの壁に吊るされたテレビを眺めていた。店主であろう女性から、お兄さんそこ空いてるよと声を掛けられ、頼りないパイプ椅子に腰かけた。

 テキパキと働く女性店主から何にしましょうと尋ねられ、オリオン麦職人と伝えると、前金制といわれたので250円を支払った。店主は奥に戻り冷蔵庫からオリオン麦職人の缶を持ってきてくれた。缶ビールをグラスにも入れずにそのまま出すあたりが沖縄なんだろうなと感じながら、他の客と一緒にテレビを眺めていた。その日は大坂なおみの世界ランキング1位をかけた全豪オープンの決勝戦であったため、店はかなり盛り上がっていた。神奈川から来たというおじさんは、勝敗が怖くて見ることができないと言って、市場の中をふらふらしてはたまに戻ってきて酒を飲み、またふらふらとどこかに行くことを繰り返していた。自由な店だった。そして前金制の理由がよく分かった。

 そうしているうちに突然、ギターの音が聞こえてきた。音のする方向へ目を向けると、シックにまとめられた黒の衣装に身を包んだお兄さんが投げ銭ライブを行っていた。彼はギターとハーモニカを同時に操り、薄暗い市場という空間に心地のいい音を奏でていた。

 ワンクール終わると彼は缶ビールをもって客と一緒にテレビを眺めていた。話を聞くと関東の出身で、沖縄に来て20年ほど、たまにこの店で投げ銭ライブをしているらしい。ハーモニカとギターを同時に演奏する人は珍しいよと言っていた。大坂なおみも無事に勝利して、金粉入りの祝い酒が客に振る舞われた。もうワンクール彼の演奏を聴いて店を出た。

 

 平成最後の日、僕はまた那覇にいた。数日間八重山諸島を巡った後、那覇で2日間滞在し関西に帰る予定だった。4月下旬の沖縄は気温も30度近く、もうすっかり夏である。その夜、またあの店に行きたいと思い栄町市場に向かった。

 店の名前は知らなかったが、市場の中を歩き回っているとすぐに見つかった。そしてまた彼が投げ銭ライブをしていた。相変わらず頼りないパイプ椅子に腰かけ、250円の泡盛を頼んだ。テレビでは平成に関する特番が流れており、今日で平成も最後だねとしみじみとした会話を交わしながら泡盛を飲み進めていたところ、彼の演奏が始まった。常連のおばちゃんによると、彼は沖縄では結構有名な奏者で、県内のある程度大きなコンサートにも出演しているらしい。彼の演奏するclose to youに哀愁を感じながら、平成最後の夜を過ごしていた。

 演奏が終わると、また彼が常連から缶ビールをもらい客席に来た。話を聞いていると彼の名は山藤洋平さん、金・土はだいたいこの店で投げ銭ライブをしているらしい。色んなところで音楽活動をしているが、この場所は大切にしていると言っていた。

 この店と彼の演奏にすっかりファンになってしまったころ、そういえば店の名前を知らないと思い、あたりを見渡した。すると「火盗」と書かれた提灯の脇に「モラ・カフェ」と書かれていた。ここはカフェなんですが、そう山藤さんに問いかけたところ、こんな答えが返ってきた。

 

 「ここはパリのオープンカフェをイメージした店なんだよ。この市場では一番古い店だ。」

 

 一瞬言葉に詰まってしまった。これがパリのオープンカフェ?パリに行ったことがないので詳しくないが、パリのオープンカフェと言われて想像するのはシャンゼリゼ通りの脇に優雅に佇む店ではないのか。悪い意味ではないが、ここは古い市場の中にある小汚い飲み屋である。しかもコーヒーや紅茶はメニューには見当たらない。しかし、パリのオープンカフェをイメージしてこの店を作ってしまうウチナーンチュの感性も嫌いではない。そんなことを思いながら、「兄ちゃん、どっから来たの」という常連客との会話をつまみに、ゆっくりとグラスを傾けて飲む泡盛がただただ心地いいのであった。

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パリのオープンカフェをイメージした店内